元気日記
2006年9月5日
離党3. めざした地方政治と議員活動
●尾張旭市議会議員に挑戦する事になった経緯
あえて、何故「政治」への参加の仕方として、自分も候補者になり、議員になる道を選んだかというと、実現したい社会への思いがあったからです。
当時、政治に携わる人に対してネガティブな事柄ばかりが報道されていて、政治不信ということが蔓延していました。
けれども、戦後、民主主義の名の下に、女性にも参政権が与えられ、私たちの暮らしていく社会を私たち一人一人が主体的に選び取っていけるのだという政治制度の中で、議員は大切な役割を担う仕事でもあると思いました。
男性議員が多い中、土井たか子さんが女性の政治参加の道を開いてくれたといわれ、母のように子育てが終わった世代の女性が少しづつ議会に増えていったそうです。
そして、時代と共に、その道は、私たち若者にも開かれました。
その流れの中にいて、未来を担う世代として、本当に、平和・自由・平等・共生を大切にした社会を引き継いでいきたいと思いました。
衆議院議員の母は比例区での復活当選であり、当時の社民党を取り巻く世論の情勢は厳しいものでした。
母の選挙区は愛知7区といって、瀬戸市、尾張旭市、長久手町、日進市、東郷町、豊明市、大府市の5市2町(名古屋市の東郊ベッドタウン)でした。この大きな選挙区での社民党地方議員は1人だけでした。
母は、2003年の統一地方選挙で、地方議員を各市町にまず一人づつ誕生させたいと、後援会を中心に候補者擁立に向けて努力していました。
その中で、豊明市では榊原杏子さん(現一期)、長久手町ではじんの和子さん(現一期)、尾張旭市では私が立候補する事になりました。
私としては、「誰に言われたからではなく、自分の意志で議員を志すと決めた」のだから、母の跡を継ぐ2世議員となってしまう長久手町ではなく、長久手町以外で活動をしたいという想いがありました。
そして、長久手町の隣の尾張旭市に賃貸住宅を借り、尾張旭市民になったのが、2002年の8月です。
尾張旭で育った人と同じくらい、それ以上にも、尾張旭の暮らしを真剣に考え、愛していく決意で尾張旭市での活動を始めました。
●議員活動
当選後、政治不信を吹き飛ばしたいという想いで、活動ができるだけ皆さんの目に見えるようにしたいと、いくつかの活動を日常化しました。
○車に看板を掲げ、行動が視覚的に見えるようにする。(尾張旭市内、どこへ行くにもこの車で行動します。)
○議会ごとに、自分なりの議会報告を発行配布する。(現在、26名のボランティアの力を借りて2万部を配布。)
○議会ごとに、通勤通学の方への報告として駅・バス停であいさつをする。(当選させていただいた翌日からはじめ、2006年7月時点で通算114回です。)
議会活動は、市民クラブという会派に所属し、6人で定期的に会議を持ちながら、真摯に議案と向きあってきました。会派内で意見が異なった時は、1人反対にもまわっています。
(※定例議会や日常活動など、経過は、このホームページ内及び、市議会だより、尾張旭市議会会議録検索システム等でご覧くださいませ。)
熟慮した結果、現在は、無所属として尾張旭市議会で活動しています。
最後に、これまで時間も知恵もエネルギーも全てを注いで私を育て、たくさんの事を与えていただいた党員の皆さまに心からお礼を申し上げます。
どうか、ご理解をいただけますよう心からお願い申し上げます。
お世話になっている皆さま、本当に、ありがとうございました。