プロフィール

もえ議員

これまで出会ってきたすべての方々と、
経験を授かったすべてのエピソードが、
今の私をつくってくれています。

メディアアーカイブ&講演記録

あいさつ

バタフライエフェクト

「蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を起こす」

無力ではなく微力なのだと
エンパワメントし合いながら
対話を紡いでいきます。

これまで出会った方々、
起こった出来事すべてに感謝して、
これから出会う方々、
起こることすべてに意味があり今の自分をつくっている。

そして、
その「ひとり1人のくらし」が集まって、
社会をつくっている。

いち地球人としての想い

国内にある様々な課題、
地球上にある様々な困難、
貧困も、温暖化も、肌の色や性別による差別も
平和な空を保障されない国へのまなざしも。

異なる場所で生きる営みが
つながり合い、影響を受け合っている
グローバルな世界の一部に存在する私は、
誰かの何かの犠牲の上に生きていないか?
誰かの何かの搾取の上に今のくらしがあるのではないか?

それらを克服するために、できることはなんだろう。

立場の異なる相手にも
異なる景色を眺めるその人にも
背景があり事情がある。

自分からの見え方はどうであるかという前提と
その上に、どうあった方がいいと描くのか
「意見を表明する」ことを怖れずに、
対話を紡いでいきたいと思っています。

そして、相手の立場から見える
「見え方」に学ぶ姿勢も忘れずに、大切に、
エンパシーを磨き感受性を頼りに
活動したいと思っています。

「違い」が「差別」や「搾取」となり
誰かを傷付ける現実を見逃さず、
解決のために働くひとりでありたい。
「対話」という道具を駆使して
赦し、認め合い、手を取り合っていきたい。

「違う」ことをも認め、
「同じ」中にも異なる「個」がある事に
心を配っていきたい。

ただ、幸せな日常をと願う全ての方々と
これからも、共に生きていきたいと願います。

数々のご縁を、ありがとうございます。

プロフィール:大島 もえ(おおしま もえ)

経歴

その他

表彰等

資格等

選挙記録・所属委員会等記録

\尾張旭市議会議員選挙/
初当選(社民党公認) / 26歳~
◆2003年4月 最年少当選 (1,497 票)
第2期(無所属) / 30歳~
◆2007年4月  2期目当選(2,593 票)

《第1子出産 34歳、2010年8月》

第3期(無所属) / 34歳~
◆2011年4月  3期目当選(1,765 票)

《第2子出産 36歳、2012年10月》
《第3子出産 38歳、2014年10月》

第4期(無所属) / 38歳~
◆2015年4月  4期目当選(2,281 票)

《第4子出産 40歳、2016年9月》

\尾張旭市長選挙/
42歳(無所属_立憲民主党・国民民主党 推薦)
◆2019年2月 (15,664  票) 惜しくも落選
\第49回衆議院議員選挙/
45歳(比例代表・東海ブロック_立憲民主党名簿順位29)
◆2021年10月 落選

若手議員

女性議員

出産議員

子育て議員

社会 は 選べる。
政治 と 暮らし を つなぐ、笑顔の研究所

『 smile lab m’s(スマイルラボ・エムズ)』主催
  1. 「社会」を眺める自分の中の「窓枠」を拡げ、
    「より広い世界を観たい」という動機を。
  2. 「選挙へ行かない人」に、「選挙へ行こう!」という
    期待感と自己有用感・自己効力感を。
  3. 「不便・不条理・不自由」を感じたら、
    「自己責任」にしまい込むのではなく
    「背景にある仕組みやステレオタイプ、社会課題を解決しよう」と思える思考を。
  4. 「社会の課題に向き合っている人」に、
    「政治を動かし解決する」という選択肢を。
  5. 「立候補」を支えるバックオフィスとプラットフォームを。

生い立ち:MOE-History

誕生~就学前

「愛媛産には愛がある!」でお馴染みの愛媛県松山市生まれ。
その後、「愛」つながりの愛知で育ち、今に至る。
「みかん」つながりの静岡にも半年だけ暮らした。
おばあちゃん、ひいおばあちゃんとの記憶も。
多世代を体感して育つ。

両親の市民運動
両親の離婚と1日3カ所の保育所

小学生:転校・分校、4校を経験

※転校は、既にある集団に異物として転入するのだと身をもって経験。
処世術の一つを身につける

※西小がマンモス校になり、南小が新設分校する時の第1期生として
送られる側なのに、なぜか「送る会 実行委員長」

鍵っ子
学級名簿
留守番の夜
早技!目覚ましストップ
初めての沖縄
幼馴染と市電に乗ってピアノのレッスンへ。
幼馴染と夜のおつかい。
給食登校
健全育成表彰「優良児童」
居場所としての習い事

居場所探しの中学生活(長久手町立南中学校)

卓球に明け暮れた高校生活(名古屋市立名東高校)

卓球部
お弁当づくり

縦横無尽に大学生活(愛知県立大学文学部児童教育学科)

経済的事情から「県内国公立」が命題だったが、センター試験も振るわず。
夜な夜な布団の中で大学一覧を眺め、
2次試験配点の高い学校を発見したのが県大だった。
論文の配点が高く、
後々、恩師からユニークな論文だったことを覚えていると聞いた。

名古屋市瑞穂区のキャンパスまで初めての地下鉄通学に憧れたが、
自宅から最寄り駅までが不便という現実が待っていた。

学生オーケストラでオーボエ
アイスホッケー
効率重視のアルバイト
海外訪問
念願の一人暮らし
幼稚園実習と母校教育実習
卒論は「居場所」論

ワークライフバランス重視の社会人デビュー

語学&アイスホッケーでカナダ留学を目指して
時間と収入のバランスをとった。
母校の大学で嘱託職員として時短勤務し、
練習&留学費用貯金&慎ましい一人暮らし。

和太鼓デビュー

社会人になってから教わった和太鼓。
数々の先輩や友人に学び、お祭りや舞台という愉しい時間を
ともに過ごさせていただいた。

なぜ、立候補に至ったのか。:MOE-Story

政治の道へ

「親の職業」としての政治から
「民主主義のツール」としての政治への脱皮

政治家母の娘として(14歳~)

母が長久手町議会議員に立候補した当時(選挙権のない14歳)から
選挙権を得て大学卒業までの8年間、
母の選挙の度に子ども心に人生の不安定さを共有してきた。

大黒柱である親の職業が4年に1度リセットされ、
更にはチャレンジングな母は、県議選へ挑み落選し、
2000年には所属していた政党の
最後の力を振り絞った衆議院総選挙に、
比例票を開拓すべく一矢報いるためにと立候補に至る。

本命だった候補者の方が急にお亡くなりになり、
東海ブロックの1議席を無駄にしないためにと、
応援団の方々の渾身の活動により、
比例1議席を授かった。

母の生き方は、母のもの。私は、私の考えと生き方がある。

96年に成人し、
選挙権を得てからの母が挑んだ県議選、衆院選では、
母の娘だという理由で
拒否権なく選挙に従事することを支援者の皆さんから求められ、
私の自由はどこに?人格はどこに?と葛藤の青年期入り口だった。

狭い世界観の中で、
母は私にとって「世界の全て」であり
「絶対的な存在」として育ってきた。
自由な大学生活を経て、
母を「相対化」することで「自己決定」の人生が始まる。

「わがまま言えるスタッフが必要なの。」

母が長久手町議であった当時は、
宿泊を伴う留守の際にはカレーが用意されてのお留守番。
その他は基本、自宅を拠点にした日常活動だった。
それが、国政へと活動拠点が増え、議員宿舎と自宅の往復。
選挙区は7市町へと拡がり、
党務は東海ブロックでたった1人の役割であり、
国会では党を背負って所属委員会でオブザーバー理事となる。

一変する中で、
24時間寝食を共にしてでも「わがまま言えるスタッフ」が必要
との要請を受け、
「私にも自分の人生があるから2年限定ね」などと
生意気な条件でスタッフに加わらせていただくことに。

24時間夢中で仕えた中で感じた強烈な「政治不信」の壁

寝る時間以外は全て仕事時間という働き方をしても
追いつかない活動の中で、
広報活動で街頭に立っても
「人々の日常」と「非日常の政治」という対比や
壁を感じる場面が募り、
「政治不信を信頼に変えたい」との思いを
地方議員として「在り方」を通して実現したい
という目標が生まれた。

初めて、候補者としての選挙へ

2世ではない、自分の決断として

育ったまち長久手は、母の政治のふるさとでもあり、
その地での立候補には抵抗があった。

縁のない尾張旭市でアパートを借り
単身移住しての立候補は、
「落下傘」との批判もいただいたが、
党の支部が残っていて半世紀年上の元尾張旭町議、
市議の先輩方がお世話くださって、
また、地域の支援者の皆さんにもお力を借りての
ハイブリッド応援によって当選させていただけた。

賃貸アパートの大家さんのご理解を得て、
住まいを選挙事務所にさせていただき、
2度の選挙を行わせていただいた。
大家さん並びに、ご近所の皆さんの
ご理解とご協力あってこそ今がある。

落下傘との批判はその通りであり、
一生この地で生きていくことでお返ししたいと決意し、
おかげさまでこの地で子育てをして暮らせることを
幸せに思っている。

26歳に何ができるのか、とのご批判もあり、
活動でお返しできるようにと暮らしの中で得た課題感
を政策として還元するために努めていった。

政治活動や選挙を通して育てられるということ

事前の政治活動&選挙活動を通して、
多くの市民のみなさんとの対話の中で、
地域の課題を教わり、育てていただいた。
だからこそ、そのお一人お一人の顔が浮かべば
裏切れない、応えたい、との思いが募る。
これが選挙の意味なのだと実感した。

当選後初の一般質問は、
それらの課題提起でいっぱいになった。
その様子を記事にしていただいた

若手議員

尾張旭市政史上最年少

尾張旭市議会では史上最年少当選となり、
以降4期16年間、42歳までの間、
一貫して最年少議員のポジションであったことは、
よく驚かれる事実だ。

議会対応を担う幹部職員の皆さんは、
親世代の年長者ばかり。
「我が子ほどの若者に何ができる。何がわかる。」
という視線を注ぐ相手と対話を成立させるために、
どうすればいいのかについて、
心を砕き試行錯誤したことは、今も糧となっている。

理想に燃える

24時間自由に使えた独身の当時は、
理想の政治家像に近づくべく活動量に燃えていた。

「普段何をしているか分からない」
という声に対して、
SNS等の発達していなかった当時、
日常的に宣伝カーに乗って市内を移動し、
街頭活動やニュースレターの配布など、
文字通り「目に見える活動」に邁進した。
一方で、生活者としての当事者性は薄く、
課題の多くは理想や理念を核にしていた側面も
少なくなかった。

政党に所属するということ

政党に所属していた佳さは、
全国の青年議員とつながれる機会があったことや
政策について深められる環境があったことだと振り返る。

一方で、地方議会において
国政のニュースやイメージに左右され
「政党の看板を背負う」ことへのしんどさが、
「政治不信を信頼に変えたい」という
「政治の入り口」の活動をしたかった
自分の思いとのギャップになっていった。

お世話になった方々には申し訳ない決断。
「離党」を経て無所属で2期目へ挑む事になった。

当時の政党支部の先輩方には、
その後も教えを授かり続け、
寛容に感謝するばかり。
ありがとうございます。

結婚・家族

パートナーに求めるもの

私の職業や生き方をオッケーとしてくれるパートナー、
転勤のない働き方、挨拶をできる人柄・・・
相性も必要だが、
それなりの条件を抱えてしまっていたため、
家庭を持ちたいとの願望を叶えてくれる
出会いには苦労したと思う。

若くして地方議会に送っていただき、後
援会の皆さま方の期待も授かり、
結婚相手へのイメージや条件みたいなものも
抱かれていたため、
私の選択に対して理解できないとして
離れていかれた方もいらっしゃった。

公職者としての職責と、
人生のパートナーを得るという個人の選択とを
混同されやすい立場にあったが、
人生の選択を尊重いただける
支援者の皆さまの励ましにより、
結婚生活をスタートすることができた。

いつも、どんなときも、公私によらず、
一人では生きていけないという教えを、
いつも受け取っている。

出産議員

家庭のことは夫と決める

にぎやかな家庭への憧れがあり、
ご縁があればこどもを授かりたいとも思っていた。

当時、
「議員なのに妊娠するなんて無計画でダメだ!」
「議員を辞めてから産むべきだ!」という
ニュースも耳目を集めていたが、
「産むか産まないか、いつ産むか、何人産むかは
人としての尊重される権利であり人権問題である」とした
「セクシャルリプロダクティブヘルスアンドライツ」の
理念に共感していた私は、
出産が投票行動の判断基準になるならば
それも私の現在地だと受け容れよう、
有権者の皆さんを信じよう、と、
人生のライフステージを進めた。

議員としての利害関係者は
そこに暮らす皆さんであるという
揺るぎない前提がある一方で、
家族計画を決める関係者は唯一夫だけだと考え、
夫との合意によって
ご縁があったら授かってもいいね。
という道を決めた。

市議会で初めての存在

「市議在任中の出産」。
所属する尾張旭市議会では初めての事であったが、
当時の所属会派の代表が
「希望することがあったら相談してね」
という対応をしてくださったおかげで、
むくんだ足を投げ出せる休憩室や
授乳室として使っても佳い部屋として
柔軟に用途を変えられる様に
全議員からの承認を得て応接室の1室を
利用させていただけたことは大きかった。

自分自身が初めての経験だったので、
何に困るのかどうか、そのこと自体も未知数だった。
そのため、労働基準法や市職員の特別休暇規定を参考に
産前産後の欠席について基準を自分で定めることにした。

妊婦生活&出産&産後育児と続く
時間の経過と共に課題が見えてきて、
第2子以降、順に役立てていこうと
議会の場でも提案したが、個人の問題とされ、
一般論として受けとめていただけない雰囲気には消耗し、
解決に至らないこともあった。

妊娠期~出産までの課題(議会制度との関係)

議会は、今居る人の職場であるばかりでなく、
民主主義のツールとして
次の世代の方々にとっても働きやすい環境を
整えていくべきである。

数々の未整備環境での試行錯誤が訪れ、
「後の人のために」と提案にまとめて時の議長宛に届けた。
(内容に関心を寄せていただける方は、ご連絡ください。

産後産褥期の母体回復~乳児子育て期の課題(議員活動との両立の関係)
多子育児の課題と産む側の性としてのキャリアの課題

出産議員ネットワーク

2017年12月、第4子(末っ子くん)1歳
のタイミングで超党派自治体議員による
「出産議員ネットワーク」の立ち上げ呼びかけに
鼻息荒く賛同参集し、
人生の大きな転換点となる出会いを授かる。
チャーターメンバーとして事務局長を拝命し、
全国各地の仲間との情報格差を埋めることが
鍵になるとの一心で活動記録の共有に奮闘した。

後に、2019年1月の市長選挙へ挑んだ際には
各地から仲間が駆けつけてくれて、
想いを持って各地の持ち場で奮闘されている
みんなの政治への熱い想いと
ガラスの天井を開けてほしいという強い願いを受け取り、
感無量、言葉にあらわせない気持ちだった。

詳しい活動内容は、コチラへ。

大学でゲスト講師・外部講師

恩師より
「リアルな現場の話を聴かせて」と
オファーいただいたことがきっかけで、
選挙権目前の若い皆さんにお話しする機会を授かりました。
貴重な機会に、毎回、
「リクルートに来ました!」とお伝えします。
#政治不信を信頼に変えて
#人生の進路の選択肢の1つに

2016年―2018年

母校 愛知県立大学の外国語学部
「政治経済研究入門」で「市議会議員のお仕事」
と題した授業を毎年講演。
https://www.aichi-pu.ac.jp/news/2018/news_20180720_2166.html

2019年―2021年

尾張旭市に立地する唯一の大学
名古屋産業大学&名古屋経営短期大学の
新入生が全員合同で受講する
「現代ビジネス概論」で毎年講演。
https://www.nagoya-su.ac.jp/2019/04/12834/

オトナの「公民」講座&選挙手帳「私の未来手帳」監修・発行(2017年~)

政治不信の壁を克服するために仮説を立てた。
自身の生い立ちは政治へのアクセスが
比較的容易だったことを振り返り、
投票率の低さは「無関心」ではなく、
「政治との関わり方を知らない」ことが
背景にあると仮定した。

プレイヤーとしての議員活動を
研鑽することとは別に、
「政治=候補者や政党選び」
「政治家は集票活動に熱心」という
誤解を解くべく活動し始めた。

私にとって理想の政治の在り方とは、
「全ての方々が社会の一員として考え行動する」
状況です。
その導線として、
御朱印帳の様に選挙記録を集められる
「選挙手帳」を監修・発行し、
人生100回の選挙機会があることや
選挙権が無い時代からの歴史、
公正な選挙を保障する3原則、
国・都道府県・市区町村という3つのお財布の構造と
議決機関としての議会の成り立ちなどが学べる
「オトナの公民講座」を組み立てました。

>>社会を選ぼう。政治と暮らしをつなぐ研究所。
smile lab m’s(スマイルラボエムズ)
」を主宰

「FUTURE DIARY~私の未来手帳~」
(通称|選挙手帳・オリジナル)を監修・発行

>>#18歳成人を選挙手帳で祝おう♪プロジェクト実施中

オトナの「公民」講座を開催

>>【PDF】大人の「公民」講座

詳しい活動はコチラへ。

突然の市長選挙

概要

尾張旭市は人口8万人余り。
当時の市長は市議として1期先輩で
同じ会派でお世話になった方だった。
市長として2期目を邁進中、
突然のスキャンダル辞職により、
急遽市長選挙が行われた。
市議としての任期が4月に迫る目前の1月だった。

4年に1度の予定された選挙ではなく、
いわゆる「降って湧いた」突然の選挙だった。

市議5期を務められ勇退されると
話されていた方(現市長)と、
私との一騎打ちの市長選挙となった。

結果は、16,651 票 対 15,664 票
( 惜敗率95%、987票差)で敗れた。
支援者の方々と一体となり投票率向上にも努めた結果、
過去30年で最高の投票率「48.7%」となった。

選挙結果は手が届かなかったけれど、
選挙を通じて都市(まち)づくり、政治参加を
前に進められたことに感謝している。

また、愛知県では女性首長がゼロ県であり、
ガラスの天井突破への期待もお寄せいただいた。

私の考える政治とは
出馬に至る想い

「私たちの暮らしたい社会について、
共に語らい会えたら嬉しいです。」

誰もが輝けるまちNO.1を目指して挑んだ。
8万人が暮らすまちには8万通りの幸せがある。
それぞれの多様な在り方が、
弱さも含めてありのままに尊重され応援され、
自己決定が認められる社会にしていきたいと考えている。
そのための方策は、
市議時代に議会活動を通して伝えてきた。

詳しくは、「議会のお仕事」をご覧くださいませ。

母が町議から県議選、国政、2度の首長選挙へと、
常に活動のアップデートや拡がりを意識して
政治活動を重ねていたことを身近で見ていたため、
「スタートは地方議会から」そこで精進し、
次の広いステージで力を発揮していくという
キャリアイメージは潜在意識の中にはありました。

一方で、約10年間、
母体として、または授乳する者として、
いつも自分の身体が子どもたちの生命維持装置
としての役割を担いつつ
議員活動との両立期が続いていた。

突然の市長選挙は、末っ子の卒乳と共に、
私の身体が私だけの存在として還ってきた
タイミングでもあり、
「背中に羽根が生えた」様な、
これまでしまい込むかのように抱え続けていた
政治への思いがあふれ出し
立候補へとスイッチが入っていった。

執行機関である行政の長として
「市長」職への「政治を動かせる」立場への
シフトチェンジを求めて決断した。

更に、引退目前であった先輩議員が、
急な市長選挙の候補者として選択を迫られた
という事実を前に、
40代の私たち世代ががんばらなくてどうするのか!
という気持ちも動機の1つだった。

発展途上の私であるにもかかわらず、
十分な運動を展開するだけの力を授け、
期待を寄せていただいた応援団の皆さま、
1票を投じてくださった市民の皆さまには、
感謝するばかりです。ありがとうございました。

ひとりでは挑めなかった市長選挙であり、
かかわってくださった
お一人お一人のおかげで眺めたことを、
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。

家族のエピソード

当選できたら
「災害などの緊急非常事態」には家族と一緒に避難できない。
ことを家族と共有し、挑んだ。

出馬会見から1ヶ月余り。
家庭のことは、夫が職場に時短勤務をお願いし、
当時2歳(未満児保育園)、4歳(年少)、6歳(年長)、8歳(小2)であった
4人の子どもたちとの生活を一手に担ってくれた。

その間にお弁当の日があれば、
ママ友が作って持たせてくれ、
発表会の衣装への装飾もまた、
ママ友がこさえてくれました。

選挙活動も家庭のサポートも、
囲んでくれる皆さんのおかげで
精一杯活動することができた。

子どもが寝るまでには帰宅したいと臨んだが、
あと少し、あと少し、と
「当選したい」気持ちが活動を拡げていき、
準備から開票までの期間中、
子どもの顔を見られたのは1日だけだった。

その日、私はリビングで泣き崩れた。
一般的に言われる
「こどもが寂しい思いをする」というのは
ステレオタイプの思い込みであり、
こどもたちは夫との暮らしを
楽しみつつも懸命に暮らしていた。

自分で自分に驚いたが、
「候補者である時間」には自覚していなかった
「家族や子どもたちと過ごせなくて寂しい」
という気持ちが溢れてきたのは
他でもない私自身だった。
「子どもたちとの時間不足で乾いていた気持ち」が
一気に溢れてしまい、驚いた子どもたちが
代わる代わる「よしよし」と頭を撫でて慰めてくれたことは、
今でも鮮明に覚えている。

また、土日のスーパー前の街頭演説中に、
向こうから歩いてきた集団は、
買い出しに偶然訪れていた夫と子どもたちであった。
その時の感激もまた、印象深く覚えている。

※ここには書き切れない様々なエピソードについて、
次の方の参考になるようでしたらいつでもお伝え致します。
お気軽にお声かけください。

42歳で転職

市長選挙の2ヶ月後には統一地方選挙が行われた。

市議に再挑戦する選択をしなかったため、
42歳での転職をした。

事業届けを提出し、それまで細々と活動していた
「smile lab m’s」の活動を本格的に開始すると共に、
友人が経営している派遣会社により
広告代理店での営業のお仕事を
マッチングしていただき、複業生活が始まった。

「公職」ではなくなったことによって、
これまで伴っていた
生活時間帯にも及ぶ四六時中の緊張感は和らいだ
一方で、
新しい業界での勤務は別の意味での緊張感と、
労働の対価を得るだけの貢献ができているだろうか
という自問続きの日々となった。

企業経済においては、
ダイレクトに収益に貢献できているのかという価値基準で
自分を点検する貴重な経験となった。

その後、お声かけいただき、
現在は団体職員として事務職に従事する傍ら、
「smile lab m’s」としての活動との両立に奮闘しつつ、
市民相談には変わらず応じている。

4人子育て共働き

定時勤務によるライフスタイルの変化と共に、
コロナ禍もあり、
図らずも家庭時間を堪能する時間が増えた。

そうかといって、
ごそごそと市民活動や社会活動に
ワクワクする気持ちに動かされつつ、
子どもたちとの日常から成長を眺めつつも、
相変わらずじっとはしていられない日々となっている。

政治にチャレンジする女性につきまとう
「#こどもがかわいそう」の呪いは、
時に、自らが自分に向けて唱えそうにさえなる上に、
1議席を争う権力闘争としてシビアな市長選挙では、
議席が複数ある市議会議員選挙では聞こえてこなかった
作り話やネガティブキャンペーンな声としても
たくさん聞こえて来た。

落選したことで、
「家族の時間が増えてよかったね」との声も届いたが、
子どもたちからは、
「お母さんのお仕事の目標が叶うといいね」と
応援を寄せてもらい複雑な気持ちでもある。

政治家であってもそうでなくても、
どんな立場の人であっても、
愛する人と家庭を持ちたいと望むこと、
子どもたちと幸せに暮らすささやかな日常を守ること、
社会の一員として自分にできる役割を尽くしたいと望むこと、
それぞれを、
緊急度優先度のバランスを考えながら、
周りの人との調整と交渉によって役割を引き受けながら、
おかげさまおたがいさまで、生きていける世の中を
こどもたちに手渡していきたいと思っている。

子育てにも、政治活動にも、また、その他の活動にも
共通すると思うのは、
「絶対的な正解のない中で、最適解を求めて選択する日々の連続」で
成り立っているということだと思う。

半径3mの日常から得られる感受性に素直に耳を傾け、
「政治は暮らしそのもの」であるからこそ、
いち生活者として社会を眺めながら、
社会の一員としてこれからも生きていきます。

自分の人生の「プレイヤーでいる」ことを、手放さない。

子どもたちが、
ジョイコン(ゲームのコントローラー)を巧みに操り
キャラクターを動かしている。
自分自身の人生のジョイコン(ゲームのコントローラー)を、
他の誰かに委ねることなく歩んでほしいし、
歩める社会であってほしい。

自己決定が尊重され、応援される世の中に。

トランプゲームでは、配られたカードで勝負するように、
他の誰かの持っているカードをうらやまず、
自分の持っているカードの使い方を試行錯誤しつつ、
「ありのままそのままのあなたが持っているチカラ」で勝負する人生を。

その上で、
社会の価値の風呂敷が広がれば、
それがゲームチェンジャーとなり、
それまでネガティブカードであったカードが
ポジティブカードへ変化するのであり、
可能性を広げる仕事として、
政治家という仕事を伝えていきたい。

家族もチーム、社会もチーム

チームは辞められても、
「この世」に所属していることは、辞められない。
置かれた状況の中に在り、
傍観者ではなく当事者として、
メンバー・チームの一員としての
役割を感じて生きていきたい。

どうぞ、これからも、細くとも長く、
変わらぬご縁をよろしくお願い致します。
ワクワクと共に、健やかな毎日が続きますように。
いつも、ありがとうございます。