メディアアーカイブ&講演記録
-
2024年11月15日
-
2024年11月13日
-
2024年10月06日
-
2024年09月20日
あいさつ
バタフライエフェクト
「蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を起こす」
無力ではなく微力なのだと
エンパワメントし合いながら
対話を紡いでいきます。
これまで出会った方々、
起こった出来事すべてに感謝して、
これから出会う方々、
起こることすべてに意味があり今の自分をつくっている。
そして、
その「ひとり1人のくらし」が集まって、
社会をつくっている。
いち地球人としての想い
国内にある様々な課題、
地球上にある様々な困難、
貧困も、温暖化も、肌の色や性別による差別も
平和な空を保障されない国へのまなざしも。
異なる場所で生きる営みが
つながり合い、影響を受け合っている
グローバルな世界の一部に存在する私は、
誰かの何かの犠牲の上に生きていないか?
誰かの何かの搾取の上に今のくらしがあるのではないか?
それらを克服するために、できることはなんだろう。
立場の異なる相手にも
異なる景色を眺めるその人にも
背景があり事情がある。
自分からの見え方はどうであるかという前提と
その上に、どうあった方がいいと描くのか
「意見を表明する」ことを怖れずに、
対話を紡いでいきたいと思っています。
そして、相手の立場から見える
「見え方」に学ぶ姿勢も忘れずに、大切に、
エンパシーを磨き感受性を頼りに
活動したいと思っています。
「違い」が「差別」や「搾取」となり
誰かを傷付ける現実を見逃さず、
解決のために働くひとりでありたい。
「対話」という道具を駆使して
赦し、認め合い、手を取り合っていきたい。
「違う」ことをも認め、
「同じ」中にも異なる「個」がある事に
心を配っていきたい。
ただ、幸せな日常をと願う全ての方々と
これからも、共に生きていきたいと願います。
数々のご縁を、ありがとうございます。
プロフィール:大島 もえ(おおしま もえ)
経歴
- 1976年6月13日 愛媛県松山市で生まれる
- 1992年3月 長久手町立南中学校卒業
- 1995年3月 名古屋市立名東高等学校普通科卒業
- 1999年3月 愛知県立大学文学部児童教育学科卒業
- 1999年4月〜00年12月 愛知県立大学嘱託職員
- 2001年1月〜03年3月 衆議院議員 秘書
- 2003年5月~19年1月 愛知県尾張旭市議会議員
◆初当選(26歳)/ 2003年5月~2007年4月(任期満了)
◆第2期(30歳)/ 2007年5月~2011年4月(任期満了)
◆第3期(34歳)/ 2011年5月~2015年4月(任期満了)
◆第4期(38歳)/ 2015年5月~2019年1月(市長選挙立候補により自動失職) - 2019年2月~現在 社会 を 選ぼう。ー 政治 と 暮らし を つなぐ研究所 ー
smile lab m’s (スマイルラボ・エムズ)開業 - 2019年4月~19年5月 広告代理店でプロモーションプランナー
- 2019年6月~2022年12月 団体事務局職員
- 2022年9月~現在 会社役員(KeePer技研 株式会社)
- 2023年5月~現在 愛知県尾張旭市議会議員
◆第5期(46歳)/ 2023年5月~2027年4月(任期)
その他
- ◇愛知県立大学外国語学部「政治経済研究入門」 ゲスト講師
- ◇名古屋産業大学、名古屋経営短期大学 外部講師
- ◇2018年1月~現在 出産議員ネットワーク(事務局長)
※議員在任中に出産した地方議員の超党派の全国ネットワーク(在任中4回出産は最多)
- ◇2018年8月~現在 子育て議員連盟(世話人)
※超党派の全国ネットワーク
表彰等
- ◇2016年 市政功労者表彰
- ◇2021年 マニフェスト大賞
・「smile lab m’s」の活動(選挙手帳監修・発行、オトナの公民講座)でエリア選抜
・「出産議員ネットワーク&子育て議員連盟」の活動でグランプリ受賞
資格等
- 幼稚園教諭2種免許状
- 小学校教諭Ⅰ種免許状
- 整理収納アドバイザー2級((特非)ハウスキーピング協会)
- ユニバーサルマナー検定2級((一社)ユニバーサルマナー協会)
- 発達障がい支援スペシャリスト養成講座 受講((特非)あっとわん)
- ソーシャルプランナー育成支援講座 受講((特非)あっとわん)
- 日本商工会議所 珠算検定 3級
- 習い事:書道、ピアノ、和太鼓
選挙記録・所属委員会等記録
尾張旭市議会議員選挙
初当選(社民党公認) / 26歳~
◆2003年4月 最年少当選 (1,497 票)
- 民生文教委員 / 建設経済委員
- 議会運営委員 / 市議会だより編集委員
- 尾張旭市長久手市衛生組合議員
第2期(無所属) / 30歳~
◆2007年4月 2期目当選(2,593 票)
- 民生文教委員長 / 総務委員長
- 土地開発公社理事
- 公立陶生病院組合議員
- 尾張旭市長久手市衛生組合議員
《第1子出産 34歳、2010年8月》
第3期(無所属) / 34歳~
◆2011年4月 3期目当選(1,765 票)
- 総務委員 / 都市環境委員 / 福祉文教委員
- 決算特別委員長 / 市議会広報委員長
- 議会のあり方検討会委員 / 議会報告会実行委員
- 都市計画審議会委員
- 尾張東部衛生組合議長
《第2子出産 36歳、2012年10月》
《第3子出産 38歳、2014年10月》
第4期(無所属) / 38歳~
◆2015年4月 4期目当選(2,281 票)
- 総務委員長
- 決算特別委員長
- 都市計画審議会委員
- 瀬戸旭看護専門学校組合 議長・監査委員
《第4子出産 40歳、2016年9月》
尾張旭市長選挙
42歳(無所属_立憲民主党・国民民主党 推薦)
◆2019年2月 (15,664 票) 惜しくも落選
- 当選者は、16,651 票。
- 惜敗率 95%(987票差)
- 投票率 48.7%(30年ぶりに更新)
※愛知県は女性首長が未だゼロ県です。
チャレンジされる方、事例に関心のある方は、
お声かけくださいませ。
(取材記事等はメディアアーカイブ&講演記録をご参照くださいませ)
第49回衆議院議員選挙
45歳(比例代表・東海ブロック_立憲民主党名簿順位29)
◆2021年10月 落選
尾張旭市議会議員選挙
第5期(無所属) / 46歳~
◆2023年4月 最多得票当選 (3,339 票)
- 議会運営委員 / 総務委員 / 市議会だより編集委員
- 予算決算特別委員会委員
- 議会みらい特別委員会委員
- 尾張旭市長久手市衛生組合議員
- 尾張旭市監査委員(2024年5月~)
若手議員
- 26歳、最年少議員として初当選以来、
42歳まで在任16年間一貫して議会内最年少でした。※年齢バイアスや、事例に関心のある方、
職種にかかわらず共通する不安やお悩みのある方は、
お声かけくださいませ。
女性議員
- 独身から在任中に結婚
入籍するか否か、使用する姓について、転居、家事分担、時間の使い方等
ライフイベントと仕事にまつわる課題に向き合ってきました。
単に社会人としての壁、ジェンダー上の女性としての壁など
パートナーとの関係構築、対話と交渉と調整のスキルアップは
日常のトレーニングだと痛感し、社会課題の理解にもつながっています。 - 「女性」議員、「女性」候補者、「女性」政治家として
単に「私」だから行動したことであっても
女性という冠がつく、議会内少数派でした。
議会に限らず、また、ジェンダーに限らず、
コミュニティ内に多様性がある組織ではない場合
マイノリティとしての無意識のバイアスに苦労することもあります。※職種にかかわらず、共通する不安やお悩みのある方は、
お声かけくださいませ。
出産議員
- 在任中に4人出産は日本で最多です。
※地方議員の方で、
選挙準備中や在任中の妊娠・出産について事例に関心のある方、
また、職種にかかわらず共通する不安やお悩みのある方は、
お声かけくださいませ。
子育て議員
- 在任中、2女2男の子育てを核家族共働き家庭として
夫と協力しながら、活動の両立に取り組んできました。※職種にかかわらず、共通する不安やお悩みのある方は、
お声かけくださいませ。
社会 は 選べる。
政治 と 暮らし を つなぐ、笑顔の研究所
『 smile lab m’s(スマイルラボ・エムズ)』主催
- 「社会」を眺める自分の中の「窓枠」を拡げ、
「より広い世界を観たい」という動機を。 - 「選挙へ行かない人」に、「選挙へ行こう!」という
期待感と自己有用感・自己効力感を。 - 「不便・不条理・不自由」を感じたら、
「自己責任」にしまい込むのではなく
「背景にある仕組みやステレオタイプ、社会課題を解決しよう」と思える思考を。 - 「社会の課題に向き合っている人」に、
「政治を動かし解決する」という選択肢を。 - 「立候補」を支えるバックオフィスとプラットフォームを。
生い立ち:MOE-History
誕生~就学前
「愛媛産には愛がある!」でお馴染みの愛媛県松山市生まれ。
その後、「愛」つながりの愛知で育ち、今に至る。
「みかん」つながりの静岡にも半年だけ暮らした。
おばあちゃん、ひいおばあちゃんとの記憶も。
多世代を体感して育つ。
両親の市民運動
- 施設から街へ
当時、施設収容型だった施策の元に暮らしていらした
障害当事者の皆さんと、「施設から街に出て暮らそう!」と、
住まいの契約保証人になり、
入浴を含めた24時間介助を組むなど
社会課題を解決するべく市民運動に没頭の両親。 - 大人の中で育つ
親の市民運動仲間の中で子連れは珍しく、大人の中で育った。
ぬり絵を持参するも、
会議が長引く大人の空間ではとても退屈だった記憶。
ある時泣いている私を慰めに来てくれたおじさん?お兄さん?へ
「その理由で泣いとるんじゃないけん!(伊予弁)」と怒る私。
決めつけられたり誤解されたりすることへの抵抗。
感情を正しく理解してほしい欲求。
違和感をスルーできないエピソード。 - 車いすとデモ
石鎚山へのデモでは、
歩き疲れて車いすのお膝に座らせてもらうことも。
カンパの袋が回ってきた時に、直前にせっかく奮発してくれた
お小遣いの1,000円札を入れてしまい
それをくれた仲間のお兄ちゃんが目を丸くしていた。
両親の離婚と1日3カ所の保育所
- 新しい名字
3歳の時に両親が離婚し、名字が変わり、新しい名字を覚える。
母との生活では、
朝から夜まで1日3カ所の保育所へ預かってもらう。
小学生:転校・分校、4校を経験
- 愛媛県松山市立北久米小学校(1-2年生)
- 静岡県静岡市立中島小学校(3年生前半)
- 愛知県長久手町立西小学校(3年生後半-5年生)
- 愛知県長久手町立南小学校(6年生)
※転校は、既にある集団に異物として転入するのだと身をもって経験。
処世術の一つを身につける
※西小がマンモス校になり、南小が新設分校する時の第1期生として
送られる側なのに、なぜか「送る会 実行委員長」
鍵っ子
- 鍵が捨てられていたハプニング
小学生になり、鍵っ子時代は、
隠してあった鍵を近所のこどもが珍しがって捨てられてしまい、
アパートの階段で母の帰りを待つハプニングも。
学級名簿
- 父親欄が空欄で目立つ
当時まだ学級名簿が配布されており、
父母欄もそれぞれ設けられていた書式であったため、
父親欄の空欄が目立った。
また、「一人っ子」というきょうだい構成も
珍しい時代であったため少数派だとの自覚があった。
留守番の夜
- 「お母さんが無事に帰ってきますように」
留守番の毎夜、布団の中で
「お母さんが無事に帰ってきますように」と呪文を念じて就寝。
早技!目覚ましストップ
- 「お母さんを起こしてしまいませんように」
母の起床よりも登校時刻が早かったため、
目覚まし時計の音で母を起こしてしまわないように
瞬時に時計の呼び音を止める技を身に付ける朝。
初めての沖縄
-
- 母の友人親子と共に
両親の友人(沖縄出身)の帰省に合わせて
初めて親と離れて沖縄&飛行機体験。
- 母の友人親子と共に
幼馴染と市電に乗ってピアノのレッスンへ。
- 初めてのファストフード
500円玉を握りしめて、銀天街で初めてのファストフード。
幼馴染と夜のおつかい。
- 転んでも手は離さない。
「絶対に何があっても手を離してはいけないよ。」約束を守り、
転んだ時も手を離さずに共倒れ。共に擦り傷。
給食登校
- 「お昼ご飯を食べてきて」
多感な時期に、「学校へ行きたくない」と母に訴えるも、
「給食を食べにでもいいから通って」との説得により
保健室登校の時期もあり。
健全育成表彰「優良児童」
- 「良い子でいなくちゃ。」
母の子育てが責められてはならない、という自意識。
夏休みの宿題作品が毎週表彰。
学年やクラス合唱の指揮者に燃えていた。
児童会のマーク、卒業レリーフの図案も採用され、玄関に飾られていた。
居場所としての習い事
- 今も役立っている基礎基本
そろばん・書道・ピアノを習わせてもらい、そこが居場所でもあった。
おかげで、おつりの硬貨をより少なく受け取るための計算ができる、
文字・手紙を書くのが好き、楽譜が読めるという基礎は
暮らしにも役立っていると感じる。
卓球に明け暮れた高校生活(名古屋市立名東高校)
- 受験は、実力への不安から内申点重視の推薦入試を選択
当時まだ「ケモノ道」であった(現・市が洞地域)近道を汗だくで自転車通学。
高校で初めて、成績の張り出しを経験。
一度だけ生物のテストで学年トップになったのを最後に、次第に学力は低下。
卓球部
- 土日も練習か試合か
高校時代は、公立校ながら全国大会を目指すという卓球部で
ほぼ土日も360日の練習と試合の日々。
東海選手権に出場できたのが全盛期。試合結果を受けて丸刈りにした男子部員に対して、
女子だけ免除はおかしいと考え自らスポーツ刈りに近いショートヘアに。
今なら、その違和感を言語化できるが、当時は対等で居たい気持ちが勝った。 - カットマン
守備型で、相手の攻撃も粘り強く返球し、チャンスには決める!
が理想だった。恩師の言葉は、今も私に道を示してくれている。
「打ち抜かれたら相手がうまかったのだから、仕方がない。
それを恐れて自らミスをすること、相手のミスを誘おうとするあまり
自らミスをすることを限りなく無くす努力をして、結果を待つ。」相手のことは、変えられない。自分で動かせるのは自分だけ。
だから、自分が精一杯を尽くして結果を待つしかない。一票に託してもらう仕事である今、
自分に役割をいただけるかどうかは、まさに、相手が決めること。
そう思いながら、前向きに受け止めて取り組んでいる。
お弁当づくり
- 茶色いお弁当からの脱出願望
お弁当持参生活が始まり、
親の作る彩のない茶色いお弁当が恥ずかしく、自分で作るようになる。
この頃購入した「料理の基本」BOOKは、一人暮らしにも役立った。 - 単価計算の定着
学校帰りにスーパーへ。
買い物袋やトイレットペーパーを左右双方のハンドルに提げ、帰宅した。
家計を気遣い、グラムいくら、という換算をしながら
大きなマヨネースや安い部位のお肉を購入していた。
縦横無尽に大学生活(愛知県立大学文学部児童教育学科)
経済的事情から「県内国公立」が命題だったが、センター試験も振るわず。
夜な夜な布団の中で大学一覧を眺め、
2次試験配点の高い学校を発見したのが県大だった。
論文の配点が高く、
後々、恩師からユニークな論文だったことを覚えていると聞いた。
名古屋市瑞穂区のキャンパスまで初めての地下鉄通学に憧れたが、
自宅から最寄り駅までが不便という現実が待っていた。
学生オーケストラでオーボエ
- スケールの大きさを体感
名市大と合同の学生オーケストラに入部し、オーボエ入門。
定期演奏会で感極まる経験をさせていただくも、
アイスホッケーとの両立が厳しくなり2年で退部。
育ててくださった先輩や同期のみなさんには
とても迷惑をおかけしてしまった。
アイスホッケー
- プレイヤーとして楽しみたい
校門で勧誘していた 名工大(男子)アイスホッケー部
マネージャーに友人と共に参加するも、プレイヤーになりたい!と
大須スケート場所属の社会人クラブチーム
「中日クラブ女子アイスホッケー部」入部。
名工大アイスホッケー部の練習にも引き続き参加を認めてもらい、
ビジター参加可能な練習を求めて、
他大学の練習等にもお世話になる。大須スケート場、現モリコロパークスケート場、
邦和スポーツランド、富士スポーツランド(当時)と、
県内4カ所を転々とお世話になる日々だった。 - 「中日クラブ女子アイスホッケー部」
中日クラブは東海地方では常勝チームで、
全国大会にも連れて行ってもらった。
一番活躍できた記憶は、県大会での1GOAL。
ジュニアチームの遠征にスタッフ同行した折に、
雪に阻まれバスが立ち往生した経験も。
その後、結婚まで10年間続けた。今でも、同時代を過ごした 先輩、同期、後輩のみんなと
定期的に集まり、近況報告をしている。
結婚・出産を経て引退した同級生が、
子どもの成長とともに、最近選手に復帰していることも 。ともに過ごした時間が、疎遠になった今も、
久しぶりの再会を一気に白熱した時間へと変えてくれる。淡い妄想として、
4人の子どものうち、誰かが始めたら…と抱くも、
送迎できない自身の現実に照らし、胸に秘めて鍵をかけてある。名古屋スポーツセンターのスケートリンクで、
大変お世話になりました。
>>名古屋スポーツセンターのスケートリンクはこちら - 名工大 アイスホッケー部
同時代に、名工大アイスホッケー部のマネージャーを
させていただきながら、練習や友好を深める時間を過ごした。
特に、先輩方には、いつお会いしても暖かく迎えていただき、
今もOBチームは元気に社会人リーグでご活躍。また、後輩たちも、まぶしいパワーでがんばっている様子は
名工大アイスホッケー部のホームページから
ご覧いただけます。チームや仲間が、氷上を降りて尚、
いつもいつまでも支えであることは、
心強く、励みであり、大切なことを教えてくれている。「LOOK UP」
パック(サッカーのボールにあたる)コントロールに気を取られず、
顔を上げて周りをよく見て、敵味方、氷上12人の動きをよく見て
次のプレーを想像、創造していくことを大切にと指導を受けた。
効率重視のアルバイト
- スケジューリングパズルは体力勝負
アイスホッケーもオーケストラも活動費用がかかるため、
アルバイトに明け暮れた。
スケートリンクは一般営業後の貸し切り時間に練習のため、
深夜に及ぶ。
そのまま明け方の大須松原花き市場でのアルバイト、
深夜のラーメン屋さん、週末のレストラン、
塾講師や家庭教師、スケートリンクの巡回指導員、
スケジュールをパンパンに詰め込んだ挙句、授業中は居眠りも。
高校卒業の春に取得した運転免許がとても役に立った。
海外訪問
- 訪問団というコミュニティ
可愛い子には旅をさせよ。まさに、小学1年生の沖縄もそうだったが、
母は、私の異邦地訪問という「体験」への投資はよく授けてくれた。
訪問地での異国体験もさることながら、
訪問団という初対面コミュニティの中で
数日を暮らすという体験こそが、鍵だったと振り返る。 - ワーテルロー姉妹友好団
大学1年。当時長久手町議だった母。
姉妹友好団の人数が足りないとのことで、私の費用を用意して
参加させてくれた。知らない大人だらけの旅。
古戦場つながりのナポレオン最後の戦いの地、
ベルギーワーテルローをめぐるヨーロッパ3か国の旅へ。 - PEACE BOAT
大学3年。ピースボート。アジア一周3週間の乗船も。
第21回 アジア南風クルーズ
期間: 1997年7月26日~8月17日
航程: 東京→香港→ダナン→マニラ→ベラウ→那覇→神戸
使用客船: ミハエル・ショロホフ号
参加者数: 441名
日常の自分を知る人の居ない空間で、ありのままの自分だけが持ち物。
全国各地の参加者と友達になる貴重な体験。
作家、(故)灰谷健次郎さんとの写真は貴重な一枚。
念願の一人暮らし
- 憧れの完全自活という自由
お金のやりくりを始めると、自己完結してみたくなり
自立への欲求が高まり、同じ長久手町内(当時)で、
共同トイレ&台所&風呂で6畳1間の木造アパートに一人暮らしを実現。
幼稚園実習と母校教育実習
- 感受性と影響力の相関に恐れをなした
児童教育学科在籍のため、単位取得により
幼稚園教諭2種免許状・小学校教諭Ⅰ種免許状を得られた。
教育実習の母校では恩師に再会するなど、
多くの大人に見守られて育ってきたことを再認識する。
実習期間に、人格形成期のこどもと関わることの
崇高さと影響力の大きさに恐れを抱き、自分の未熟さを思い知り、
進路としての選択肢から教職は外れることに。
卒論は「居場所」論
- 生い立ちを振り返っての構造的解釈
習い事、部活、クラブチームなど、
私が没頭してきた場所は、「何者であるか」を求めず、
「共通目的」でつながれる「居場所」だったのだという
体験をベースに卒論に取り組んだ。
家庭に求められなかった「誰かと一緒に居る空間」を
居場所に求めた感がある。
ワークライフバランス重視の社会人デビュー
語学&アイスホッケーでカナダ留学を目指して
時間と収入のバランスをとった。
母校の大学で嘱託職員として時短勤務し、
練習&留学費用貯金&慎ましい一人暮らし。
なぜ、立候補に至ったのか。:MOE-Story
政治の道へ
「親の職業」としての政治から
「民主主義のツール」としての政治への脱皮
政治家母の娘として(14歳~)
母が長久手町議会議員に立候補した当時(選挙権のない14歳)から
選挙権を得て大学卒業までの8年間、
母の選挙の度に子ども心に人生の不安定さを共有してきた。
大黒柱である親の職業が4年に1度リセットされ、
更にはチャレンジングな母は、県議選へ挑み落選し、
2000年には所属していた政党の
最後の力を振り絞った衆議院総選挙に、
比例票を開拓すべく一矢報いるためにと立候補に至る。
本命だった候補者の方が急にお亡くなりになり、
東海ブロックの1議席を無駄にしないためにと、
応援団の方々の渾身の活動により、
比例1議席を授かった。
母の生き方は、母のもの。私は、私の考えと生き方がある。
96年に成人し、
選挙権を得てからの母が挑んだ県議選、衆院選では、
母の娘だという理由で
拒否権なく選挙に従事することを支援者の皆さんから求められ、
私の自由はどこに?人格はどこに?と葛藤の青年期入り口だった。
狭い世界観の中で、
母は私にとって「世界の全て」であり
「絶対的な存在」として育ってきた。
自由な大学生活を経て、
母を「相対化」することで「自己決定」の人生が始まる。
「わがまま言えるスタッフが必要なの。」
母が長久手町議であった当時は、
宿泊を伴う留守の際にはカレーが用意されてのお留守番。
その他は基本、自宅を拠点にした日常活動だった。
それが、国政へと活動拠点が増え、議員宿舎と自宅の往復。
選挙区は7市町へと拡がり、
党務は東海ブロックでたった1人の役割であり、
国会では党を背負って所属委員会でオブザーバー理事となる。
一変する中で、
24時間寝食を共にしてでも「わがまま言えるスタッフ」が必要
との要請を受け、
「私にも自分の人生があるから2年限定ね」などと
生意気な条件でスタッフに加わらせていただくことに。
24時間夢中で仕えた中で感じた強烈な「政治不信」の壁
寝る時間以外は全て仕事時間という働き方をしても
追いつかない活動の中で、
広報活動で街頭に立っても
「人々の日常」と「非日常の政治」という対比や
壁を感じる場面が募り、
「政治不信を信頼に変えたい」との思いを
地方議員として「在り方」を通して実現したい
という目標が生まれた。
初めて、候補者としての選挙へ
2世ではない、自分の決断として
育ったまち長久手は、母の政治のふるさとでもあり、
その地での立候補には抵抗があった。
縁のない尾張旭市でアパートを借り
単身移住しての立候補は、
「落下傘」との批判もいただいたが、
党の支部が残っていて半世紀年上の元尾張旭町議、
市議の先輩方がお世話くださって、
また、地域の支援者の皆さんにもお力を借りての
ハイブリッド応援によって当選させていただけた。
賃貸アパートの大家さんのご理解を得て、
住まいを選挙事務所にさせていただき、
2度の選挙を行わせていただいた。
大家さん並びに、ご近所の皆さんの
ご理解とご協力あってこそ今がある。
落下傘との批判はその通りであり、
一生この地で生きていくことでお返ししたいと決意し、
おかげさまでこの地で子育てをして暮らせることを
幸せに思っている。
26歳に何ができるのか、とのご批判もあり、
活動でお返しできるようにと暮らしの中で得た課題感
を政策として還元するために努めていった。
政治活動や選挙を通して育てられるということ
事前の政治活動&選挙活動を通して、
多くの市民のみなさんとの対話の中で、
地域の課題を教わり、育てていただいた。
だからこそ、そのお一人お一人の顔が浮かべば
裏切れない、応えたい、との思いが募る。
これが選挙の意味なのだと実感した。
当選後初の一般質問は、
それらの課題提起でいっぱいになった。
その様子を記事にしていただいた
若手議員
尾張旭市政史上最年少
尾張旭市議会では史上最年少当選となり、
以降4期16年間、42歳までの間、
一貫して最年少議員のポジションであったことは、
よく驚かれる事実だ。
議会対応を担う幹部職員の皆さんは、
親世代の年長者ばかり。
「我が子ほどの若者に何ができる。何がわかる。」
という視線を注ぐ相手と対話を成立させるために、
どうすればいいのかについて、
心を砕き試行錯誤したことは、今も糧となっている。
理想に燃える
24時間自由に使えた独身の当時は、
理想の政治家像に近づくべく活動量に燃えていた。
「普段何をしているか分からない」
という声に対して、
SNS等の発達していなかった当時、
日常的に宣伝カーに乗って市内を移動し、
街頭活動やニュースレターの配布など、
文字通り「目に見える活動」に邁進した。
一方で、生活者としての当事者性は薄く、
課題の多くは理想や理念を核にしていた側面も
少なくなかった。
政党に所属するということ
政党に所属していた佳さは、
全国の青年議員とつながれる機会があったことや
政策について深められる環境があったことだと振り返る。
一方で、地方議会において
国政のニュースやイメージに左右され
「政党の看板を背負う」ことへのしんどさが、
「政治不信を信頼に変えたい」という
「政治の入り口」の活動をしたかった
自分の思いとのギャップになっていった。
お世話になった方々には申し訳ない決断。
「離党」を経て無所属で2期目へ挑む事になった。
当時の政党支部の先輩方には、
その後も教えを授かり続け、
寛容に感謝するばかり。
ありがとうございます。
結婚・家族
パートナーに求めるもの
私の職業や生き方をオッケーとしてくれるパートナー、
転勤のない働き方、挨拶をできる人柄・・・
相性も必要だが、
それなりの条件を抱えてしまっていたため、
家庭を持ちたいとの願望を叶えてくれる
出会いには苦労したと思う。
若くして地方議会に送っていただき、後
援会の皆さま方の期待も授かり、
結婚相手へのイメージや条件みたいなものも
抱かれていたため、
私の選択に対して理解できないとして
離れていかれた方もいらっしゃった。
公職者としての職責と、
人生のパートナーを得るという個人の選択とを
混同されやすい立場にあったが、
人生の選択を尊重いただける
支援者の皆さまの励ましにより、
結婚生活をスタートすることができた。
いつも、どんなときも、公私によらず、
一人では生きていけないという教えを、
いつも受け取っている。
出産議員
家庭のことは夫と決める
にぎやかな家庭への憧れがあり、
ご縁があればこどもを授かりたいとも思っていた。
当時、
「議員なのに妊娠するなんて無計画でダメだ!」
「議員を辞めてから産むべきだ!」という
ニュースも耳目を集めていたが、
「産むか産まないか、いつ産むか、何人産むかは
人としての尊重される権利であり人権問題である」とした
「セクシャルリプロダクティブヘルスアンドライツ」の
理念に共感していた私は、
出産が投票行動の判断基準になるならば
それも私の現在地だと受け容れよう、
有権者の皆さんを信じよう、と、
人生のライフステージを進めた。
議員としての利害関係者は
そこに暮らす皆さんであるという
揺るぎない前提がある一方で、
家族計画を決める関係者は唯一夫だけだと考え、
夫との合意によって
ご縁があったら授かってもいいね。
という道を決めた。
市議会で初めての存在
「市議在任中の出産」。
所属する尾張旭市議会では初めての事であったが、
当時の所属会派の代表が
「希望することがあったら相談してね」
という対応をしてくださったおかげで、
むくんだ足を投げ出せる休憩室や
授乳室として使っても佳い部屋として
柔軟に用途を変えられる様に
全議員からの承認を得て応接室の1室を
利用させていただけたことは大きかった。
自分自身が初めての経験だったので、
何に困るのかどうか、そのこと自体も未知数だった。
そのため、労働基準法や市職員の特別休暇規定を参考に
産前産後の欠席について基準を自分で定めることにした。
妊婦生活&出産&産後育児と続く
時間の経過と共に課題が見えてきて、
第2子以降、順に役立てていこうと
議会の場でも提案したが、個人の問題とされ、
一般論として受けとめていただけない雰囲気には消耗し、
解決に至らないこともあった。
妊娠期~出産までの課題(議会制度との関係)
- 安定期前の公表の問題
- 産前の欠席期間
- 産後復帰の時期
- 保育園申込と就労証明書の問題
- 宿泊を伴う公務への関わり方
- 役職の遂行
議会は、今居る人の職場であるばかりでなく、
民主主義のツールとして
次の世代の方々にとっても働きやすい環境を
整えていくべきである。
数々の未整備環境での試行錯誤が訪れ、
「後の人のために」と提案にまとめて時の議長宛に届けた。
(内容に関心を寄せていただける方は、ご連絡ください。)
産後産褥期の母体回復~乳児子育て期の課題(議員活動との両立の関係)
- 人生で最も予定の立たないこと=出産
- 選挙日程とバースコントロール
- 市議会だより問題
- 役職と宿泊公務
多子育児の課題と産む側の性としてのキャリアの課題
- 産後うつ
- 多子子育ての実感
- 上のこどもの生活を保障しつつ新生児を迎え入れるという子育ての重層化
- チャイルドシート4つ
- 保育園&幼稚園&小学校かけもち保護者4役
出産議員ネットワーク
2017年12月、第4子(末っ子くん)1歳
のタイミングで超党派自治体議員による
「出産議員ネットワーク」の立ち上げ呼びかけに
鼻息荒く賛同参集し、
人生の大きな転換点となる出会いを授かる。
チャーターメンバーとして事務局長を拝命し、
全国各地の仲間との情報格差を埋めることが
鍵になるとの一心で活動記録の共有に奮闘した。
後に、2019年1月の市長選挙へ挑んだ際には
各地から仲間が駆けつけてくれて、
想いを持って各地の持ち場で奮闘されている
みんなの政治への熱い想いと
ガラスの天井を開けてほしいという強い願いを受け取り、
感無量、言葉にあらわせない気持ちだった。
詳しい活動内容は、コチラへ。
大学でゲスト講師・外部講師
恩師より
「リアルな現場の話を聴かせて」と
オファーいただいたことがきっかけで、
選挙権目前の若い皆さんにお話しする機会を授かりました。
貴重な機会に、毎回、
「リクルートに来ました!」とお伝えします。
#政治不信を信頼に変えて
#人生の進路の選択肢の1つに
2016年―2018年
母校 愛知県立大学の外国語学部
「政治経済研究入門」で「市議会議員のお仕事」
と題した授業を毎年講演。
https://www.aichi-pu.ac.jp/news/2018/news_20180720_2166.html
2019年―2021年
尾張旭市に立地する唯一の大学
名古屋産業大学&名古屋経営短期大学の
新入生が全員合同で受講する
「現代ビジネス概論」で毎年講演。
https://www.nagoya-su.ac.jp/2019/04/12834/
オトナの「公民」講座&選挙手帳「私の未来手帳」監修・発行(2017年~)
政治不信の壁を克服するために仮説を立てた。
自身の生い立ちは政治へのアクセスが
比較的容易だったことを振り返り、
投票率の低さは「無関心」ではなく、
「政治との関わり方を知らない」ことが
背景にあると仮定した。
プレイヤーとしての議員活動を
研鑽することとは別に、
「政治=候補者や政党選び」
「政治家は集票活動に熱心」という
誤解を解くべく活動し始めた。
私にとって理想の政治の在り方とは、
「全ての方々が社会の一員として考え行動する」
状況です。
その導線として、
御朱印帳の様に選挙記録を集められる
「選挙手帳」を監修・発行し、
人生100回の選挙機会があることや
選挙権が無い時代からの歴史、
公正な選挙を保障する3原則、
国・都道府県・市区町村という3つのお財布の構造と
議決機関としての議会の成り立ちなどが学べる
「オトナの公民講座」を組み立てました。
「>>社会を選ぼう。政治と暮らしをつなぐ研究所。
smile lab m’s(スマイルラボエムズ)」を主宰
「FUTURE DIARY~私の未来手帳~」
(通称|選挙手帳・オリジナル)を監修・発行
オトナの「公民」講座を開催
詳しい活動はコチラへ。
突然の市長選挙
概要
尾張旭市は人口8万人余り。
当時の市長は市議として1期先輩で
同じ会派でお世話になった方だった。
市長として2期目を邁進中、
突然のスキャンダル辞職により、
急遽市長選挙が行われた。
市議としての任期が4月に迫る目前の1月だった。
4年に1度の予定された選挙ではなく、
いわゆる「降って湧いた」突然の選挙だった。
市議5期を務められ勇退されると
話されていた方(現市長)と、
私との一騎打ちの市長選挙となった。
結果は、16,651 票 対 15,664 票
( 惜敗率95%、987票差)で敗れた。
支援者の方々と一体となり投票率向上にも努めた結果、
過去30年で最高の投票率「48.7%」となった。
選挙結果は手が届かなかったけれど、
選挙を通じて都市(まち)づくり、政治参加を
前に進められたことに感謝している。
また、愛知県では女性首長がゼロ県であり、
ガラスの天井突破への期待もお寄せいただいた。
私の考える政治とは
- 社会は、マジョリティによってつくられている。
右利き仕様の改札口や自動販売機、マグカップのデザインまで、
社会は多数派仕立てになっているように、
この国はマジョリティである高齢の男性によって
社会のルールが決められている。
異性愛者である私は、この国ではマジョリティであるが、
女性である私は、最もメジャーなマイノリティである。
世界で最もマジョリティである白人男性も、
この国では選挙権も付与されていないマイノリティ。
物事の切り口によって、自分は、
マイノリティ性もマジョリティ性も持ち合わせている。だからこそ、他者の靴を履く様に、
他者のマイノリティ性への生きづらさにエンパシーを働かせ、
マイノリティであっても生きやすい社会へと
仕組みをアップデートしていく。 - 「きまりの中で、工夫して」生きるのではなく、
「きまり」は変えていけば佳い。
制度の外に位置された人を制度の中に位置づけていけるのは、
制度を書き換える政治の役割である。 - ひとりの声の後ろには100人の声なき声がある
目の前のひとりの声に、
いつも気付きのスタートを受け取っている。
多くの人生に出会う立場にあり、
誰かの違和感や不条理に共感し、
その後ろにある仕組みや構造にフォーカスし、
解決や改善、落としどころを提案したり代弁したりすること。
そのためのロジックを組み立てて発言することが大好きだ。
出馬に至る想い
「私たちの暮らしたい社会について、
共に語らい会えたら嬉しいです。」
誰もが輝けるまちNO.1を目指して挑んだ。
8万人が暮らすまちには8万通りの幸せがある。
それぞれの多様な在り方が、
弱さも含めてありのままに尊重され応援され、
自己決定が認められる社会にしていきたいと考えている。
そのための方策は、
市議時代に議会活動を通して伝えてきた。
詳しくは、「議会のお仕事」をご覧くださいませ。
母が町議から県議選、国政、2度の首長選挙へと、
常に活動のアップデートや拡がりを意識して
政治活動を重ねていたことを身近で見ていたため、
「スタートは地方議会から」そこで精進し、
次の広いステージで力を発揮していくという
キャリアイメージは潜在意識の中にはありました。
一方で、約10年間、
母体として、または授乳する者として、
いつも自分の身体が子どもたちの生命維持装置
としての役割を担いつつ
議員活動との両立期が続いていた。
突然の市長選挙は、末っ子の卒乳と共に、
私の身体が私だけの存在として還ってきた
タイミングでもあり、
「背中に羽根が生えた」様な、
これまでしまい込むかのように抱え続けていた
政治への思いがあふれ出し
立候補へとスイッチが入っていった。
執行機関である行政の長として
「市長」職への「政治を動かせる」立場への
シフトチェンジを求めて決断した。
更に、引退目前であった先輩議員が、
急な市長選挙の候補者として選択を迫られた
という事実を前に、
40代の私たち世代ががんばらなくてどうするのか!
という気持ちも動機の1つだった。
発展途上の私であるにもかかわらず、
十分な運動を展開するだけの力を授け、
期待を寄せていただいた応援団の皆さま、
1票を投じてくださった市民の皆さまには、
感謝するばかりです。ありがとうございました。
ひとりでは挑めなかった市長選挙であり、
かかわってくださった
お一人お一人のおかげで眺めたことを、
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
家族のエピソード
当選できたら
「災害などの緊急非常事態」には家族と一緒に避難できない。
ことを家族と共有し、挑んだ。
出馬会見から1ヶ月余り。
家庭のことは、夫が職場に時短勤務をお願いし、
当時2歳(未満児保育園)、4歳(年少)、6歳(年長)、8歳(小2)であった
4人の子どもたちとの生活を一手に担ってくれた。
その間にお弁当の日があれば、
ママ友が作って持たせてくれ、
発表会の衣装への装飾もまた、
ママ友がこさえてくれました。
選挙活動も家庭のサポートも、
囲んでくれる皆さんのおかげで
精一杯活動することができた。
子どもが寝るまでには帰宅したいと臨んだが、
あと少し、あと少し、と
「当選したい」気持ちが活動を拡げていき、
準備から開票までの期間中、
子どもの顔を見られたのは1日だけだった。
その日、私はリビングで泣き崩れた。
一般的に言われる
「こどもが寂しい思いをする」というのは
ステレオタイプの思い込みであり、
こどもたちは夫との暮らしを
楽しみつつも懸命に暮らしていた。
自分で自分に驚いたが、
「候補者である時間」には自覚していなかった
「家族や子どもたちと過ごせなくて寂しい」
という気持ちが溢れてきたのは
他でもない私自身だった。
「子どもたちとの時間不足で乾いていた気持ち」が
一気に溢れてしまい、驚いた子どもたちが
代わる代わる「よしよし」と頭を撫でて慰めてくれたことは、
今でも鮮明に覚えている。
また、土日のスーパー前の街頭演説中に、
向こうから歩いてきた集団は、
買い出しに偶然訪れていた夫と子どもたちであった。
その時の感激もまた、印象深く覚えている。
※ここには書き切れない様々なエピソードについて、
次の方の参考になるようでしたらいつでもお伝え致します。
お気軽にお声かけください。
42歳で転職
市長選挙の2ヶ月後には統一地方選挙が行われた。
市議に再挑戦する選択をしなかったため、
42歳での転職をした。
事業届けを提出し、それまで細々と活動していた
「smile lab m’s」の活動を本格的に開始すると共に、
友人が経営している派遣会社により
広告代理店での営業のお仕事を
マッチングしていただき、複業生活が始まった。
「公職」ではなくなったことによって、
これまで伴っていた
生活時間帯にも及ぶ四六時中の緊張感は和らいだ
一方で、
新しい業界での勤務は別の意味での緊張感と、
労働の対価を得るだけの貢献ができているだろうか
という自問続きの日々となった。
企業経済においては、
ダイレクトに収益に貢献できているのかという価値基準で
自分を点検する貴重な経験となった。
その後、お声かけいただき、
現在は団体職員として事務職に従事する傍ら、
「smile lab m’s」としての活動との両立に奮闘しつつ、
市民相談には変わらず応じている。
4人子育て共働き
定時勤務によるライフスタイルの変化と共に、
コロナ禍もあり、
図らずも家庭時間を堪能する時間が増えた。
そうかといって、
ごそごそと市民活動や社会活動に
ワクワクする気持ちに動かされつつ、
子どもたちとの日常から成長を眺めつつも、
相変わらずじっとはしていられない日々となっている。
政治にチャレンジする女性につきまとう
「#こどもがかわいそう」の呪いは、
時に、自らが自分に向けて唱えそうにさえなる上に、
1議席を争う権力闘争としてシビアな市長選挙では、
議席が複数ある市議会議員選挙では聞こえてこなかった
作り話やネガティブキャンペーンな声としても
たくさん聞こえて来た。
落選したことで、
「家族の時間が増えてよかったね」との声も届いたが、
子どもたちからは、
「お母さんのお仕事の目標が叶うといいね」と
応援を寄せてもらい複雑な気持ちでもある。
政治家であってもそうでなくても、
どんな立場の人であっても、
愛する人と家庭を持ちたいと望むこと、
子どもたちと幸せに暮らすささやかな日常を守ること、
社会の一員として自分にできる役割を尽くしたいと望むこと、
それぞれを、
緊急度優先度のバランスを考えながら、
周りの人との調整と交渉によって役割を引き受けながら、
おかげさまおたがいさまで、生きていける世の中を
こどもたちに手渡していきたいと思っている。
子育てにも、政治活動にも、また、その他の活動にも
共通すると思うのは、
「絶対的な正解のない中で、最適解を求めて選択する日々の連続」で
成り立っているということだと思う。
半径3mの日常から得られる感受性に素直に耳を傾け、
「政治は暮らしそのもの」であるからこそ、
いち生活者として社会を眺めながら、
社会の一員としてこれからも生きていきます。
自分の人生の「プレイヤーでいる」ことを、手放さない。
子どもたちが、
ジョイコン(ゲームのコントローラー)を巧みに操り
キャラクターを動かしている。
自分自身の人生のジョイコン(ゲームのコントローラー)を、
他の誰かに委ねることなく歩んでほしいし、
歩める社会であってほしい。
自己決定が尊重され、応援される世の中に。
トランプゲームでは、配られたカードで勝負するように、
他の誰かの持っているカードをうらやまず、
自分の持っているカードの使い方を試行錯誤しつつ、
「ありのままそのままのあなたが持っているチカラ」で勝負する人生を。
その上で、
社会の価値の風呂敷が広がれば、
それがゲームチェンジャーとなり、
それまでネガティブカードであったカードが
ポジティブカードへ変化するのであり、
可能性を広げる仕事として、
政治家という仕事を伝えていきたい。
家族もチーム、社会もチーム
チームは辞められても、
「この世」に所属していることは、辞められない。
置かれた状況の中に在り、
傍観者ではなく当事者として、
メンバー・チームの一員としての
役割を感じて生きていきたい。
どうぞ、これからも、細くとも長く、
変わらぬご縁をよろしくお願い致します。
ワクワクと共に、健やかな毎日が続きますように。
いつも、ありがとうございます。