元気日記
2011年6月27日
政治を志した原点に。
看板と中身が違うのではないかしら。。。
と疑問をもつことは、
みなさん経験されたことがありますか。
この間、
感覚として、
違和感を感じていたことを、
言語化できつつある思いがして、
ここに記すことにしました。
9年前、
選挙で当選させていただいた時から、
「いち市民」であり続けながら、
「市議会議員」という役割も
与えていただきました。
「市民感覚を持ち続ける」ことと、
議会人としての学習をすることは、
相反することではありません。
そのことが、
「議会に染まること」でもないし、
「市民感覚を忘れること」でもありません。
「議会」は悪人の集まりでも
ありません。
能力や思想にそれぞれ個性がありながらも、
基本的には、
ほんのちょっぴり
熱い人が
それぞれの立場から
想いをもって
役割を果たそうと努力しています。
しかし、
この間、
そのことを疑問に思われることが
いくつか生じてきました。
そこで登場してきた構図が
「市民のため、市民感覚の政治」
です。
看板は
市民感覚、市民のため、
としながら、
実態は、
これらの学習や理解に努めることを
怠り、
不勉強を=市民感覚である
とする場面に
いくつも出会い、
表現し難いスッキリしない
感覚を抱き続けてきました。
市民感覚を盾に
不勉強でいることは、
市民に対して失礼であると思って
私は活動してきました。
市民の代わりに
勉強することを託された
ありがたい役割なのだと
先輩から
教えられてきました。
①議会のルールを学ぶこと
スポーツを例に取ると
わかりやすいですが、
ルールを知らずに
試合で力は発揮できません。
何が反則になり、
何が得点になり、
何がこのスポーツの目的なのか。
自分の意見や想いを
表現するために
議会ルールを知ることで、
そのルールの中で、
どのような手法を活用できるのか
工夫したり、
不便や不要なルールがあれば、
見直すための提案もできます。
②施策の具体策について学ぶこと
現状を理解しなくては、
課題が見えません。
現状を知ってから、
不便や不安がみつかり、
改善の提案をします。
尾張旭市の現状と
他市町の事例、
両方に理解を深めることで
幅を持った議論ができます。
情報や知識が増えるほど、
正解に導くことができる可能性も
高まることは、
どの分野においても、
日常においても
経験している通りだと思います。
③まちを知る
民主政治は、
議会・行政・市民
の
3つの主体のバランスを保っています。
議会人としてのスキルと共に、
行政の現状を知るところまででは、
実態が不足しています。
施策の先に、
市民の皆さまの活動や
暮らしの場面を
知る努力によって、
施策の効果・影響を
実態として理解し、
また、提案につなげていきます。
「主義主張」が
皆さまにお訴えしている
『看板』だとしたら、
これら3つの取り組みは、
私の活動の『中身』を
導く手法であり柱です。
その際、
人権意識を
一番大切にしています。
「公共」が
担う役割の根幹には、
人の尊厳の
最低限のラインを
守ることが
あると考えるからです。
社会的弱者の立場に立つことを
掲げながら、
自身の言動の中に、
差別意識が見え隠れすることは
思想との矛盾であり、
そのこと自身が、
他者を傷つけたりしている
可能性もあります。
議員という役割に生じついてくる
少なくない権力を
誰のための何のために使うのか、
その事を突き詰めたとき、
何よりも優先するものは、
人権意識だと思っています。
この世の中に、
傷つけられてもいい人は
誰一人居ません。
数ある差別のひとつに
職業差別がありますが、
「何をしたか、あるいはしなかったか」
ではなく
「その職業あるいは役割である」
というだけで
批判の対象になるのは
寂しいことです。
人は、
誰しも完璧ではないから、
至らないことばかりの
未熟な自分との
歯がゆさを抱えながら
それでも、
自身の一挙手一投足に
理想と反するモノが
表現されていないか、
いつも
客観的な自分を
点検しながら
歩みを進めています。
これまで出会った
議会人の方々は、
主義主張、思想が
自分とは異なっていても、
看板と中身が
イコールである方々ばかりでした。
最近、
看板ではその通り☆と思えるのに、
その過程が異なる言動に
出会うことが少なくなく、
非生産的な
議論が時間を奪っていく場面に、
これも、
尊重すべき「多様な市民」の
皆さまが選んだ結果である。。。
ことが、
私の中の
新たな学びであり、
課題であります。
自分の、
この間向き合った課題の
まとめとして、
書きました。
ありがとうございました。