元気日記

元気日記

2006年9月5日

離党2. 私と政治とのかかわり

●私なりの政治哲学は、ここから。
 私の母は、いつも、「社会との関わり」の中で物事を考え、その中で、不条理と思う事に対して行動を起こしていく人でした。
 私の知っているものだけでも、
★ 障がいを持った方の解放・支援運動
★ 合成洗剤ではなく、自然に負荷の掛からない「せっけん」製品を使う運動。
★ 学校給食をセンター方式でなく自校方式に!!で3万名の署名を集めて闘った。
  (当時、各学校ごとに調理場があったものが大型センターで一括調理されることに対して=松山市)
★ 人権救済の運動
など。
 介助したり、署名を集めたり、カンパをしたり、交流会をしたり、いつも、母の活動先に連れられ、周りは大人ばかりでした。
 今でも、心が弱くなった時は、母の「私たちは、雨露しのいで生きていけるでしょう。」という言葉が、私にしっかりしなさいと言い聞かせます。
 地域に、日本に、世界に、助けを必要としている人が居るならば、それに応えていく生き方をすることが私の中で大切なことだと、この頃わかってきました。
●社民党との出会い
 私は愛媛県松山市で生まれ、8歳(小学2年生)まで過ごしました。
 母は離婚し、転勤で名古屋のベッドタウン長久手町に越してきたのは9歳(小学校3年生の10月10日運動会の日)でした。
 その後、母は、(私が中学2年のとき、)引退する社会党の長久手町議会議員の方の後継者として長久手町議会に送っていただき2期務めました。
 そして、母は、1996年社会党が社民党と民主党に分裂した時、愛知において社民党に残り、その後1999年の統一地方選で県議空白を解消しようと県議選に「愛知郡選挙区(長久手町・東郷町)・定数1名」から立候補し、800票差で惜敗しました。
 翌2000年衆議院選挙で愛知7区から立候補し、衆議院比例東海ブロックで当選しました。
 私は、このような、母の人生と共に歩む中で、当時ありがちだった「母子家庭だからあの子は○○なのだ」というラベルを貼られる事で、母の志に迷惑を掛けることだけはあってはならないと子ども心に思いながら、その反面、自分の親が多くの人目に晒されるというしんどさというものを抱え、消化しながら育ってきました。
 転換点として大きかったのは、母が衆議院議員に当選した翌年から、母の秘書として地元事務所での多くの経験であったと思います。
 数々の選挙を通して、母の周りにボランティアの支援者の輪が広がっていくのを目の当たりにし、「政治」ってステキな仕事だという想いが自分の中でどんどん大きくなっていきました。
 私の中に、政治的なスタンスとして、人の命は平等であること、人権・人格の尊重や、物事の解決に武力を行使しない事、生活の行為の帰結先に自然環境への配慮を忘れない事などが刻まれ、それが社民党の理念だと理解してきました。
 当時、社民党は2大政党のはざ間に埋没しそうな小さな政党でした。更に、バッシングもいくつか受けながら支持率も低迷していました。
 けれども、政党の人気度合いを理由に政治を志すわけではなく、実現したい社会があるから政治に携わろうとするわけで、私の目標は、「社民党の理念を市民の皆さんに伝え、理解してもらう」事として、2001年の9月3日に入党しました。
 その後、2001年10月27日から開催された、社会民主党第7回定期全国大会で、初めて全国の党員代議員の熱意に圧倒され、「長い歴史を重ねてきた社民党(社会党)が何故、今日も懸命にその旗を護ろうとしているかを体感し、私たち若者も力をつけて未来を共に築きたい」との想いを発言しました。
 日頃は地域の中で活動しているのだけれど、全国に同じ志の仲間がいるということがどれだけ励みになったかわかりません。そんな体験をしました。

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